/ june29 |
今回はその続きとして日本橋から少し離れているのですが
(でも徒歩で15分くらい?地理的には地名から日本橋の名称がなくなってしまうのですが・・・どうしても紹介したいので許して下さい^^;)
佃島というところを知っていますか?
佃島、佃島、ツクダジマ、ツクダジマ、つくだに、佃煮!
そう!あの佃煮の発祥の地なのです!
佃煮は現在は日本全国で伝統的な食べ物として皆さんに親しまれていますよね
で、これがどれくらい伝統的な食べ物かというと・・・・
徳川家康のときから続く400年以上の歴史がある食べ物なのです!
では、少し詳しく話しますね。。。。。。。
話は1852年までさかのぼります・・・・・
アノ有名な織田信長が明智光秀の謀反によって殺された本能寺の変の二日後の6月4日、
徳川家康はわずかな手下と堺にいました。
なんで現在の愛知県東部の三河の国の城主であった家康がそんなところにいたかというと・・・
5月に信長の安土城を訪ねた帰りのついでに堺へ回って小旅行を楽しんでいたのです。
(商業で栄える堺を見物するという立派な建前もありますよ!)
家康は信長の盟友だったために、明智光秀に見つからないようにと逃げており、
現・愛知県にある自分の持ち城である岡崎城にもどれるかどうかさまよっていました。
しかし!なんと堺の商人から直接の退路が絶たれていることを知らされてしましました。
居場所も移動ルートも明智光秀が把握していたのです!
そこで家康は何も知らない振りして吉住神社に参拝に行くという口実で迂回ルートで脱出を図ったのです!
しかし、その迂回ルートでは途中で神崎川と呼ばれる川を渡らなければいけず、そこに差しかかった時、
なんと大水で渡し舟がないという事態に遭遇。
家康はどうなってしまったのでしょう!?
なんとこれを近くの佃村の庄屋の森孫右衛門らが助けます!
漁船と万一の時に備えての備蓄である小魚煮をさしだすことによってこの危機を脱したのです!
佃村の人々から受け取った佃煮の原点ともいえる小魚煮は日持ちも腹もちもよく、目立たないように人里離れた道を通って地元に帰らなくてはいけない家康一行にとって大変ありがたいものだったそうです。
その後、現三重県西部の伊賀の忍者部隊の助けもあってなんとか岡崎城にたどり着いた家康は
佃村の人々の恩を忘れることはなく、徳川幕府創設期から佃村の漁民を江戸に連れてきていました。
さらに恩賞として幕府はは隅田川にある石川島の近くの約20000m2の干潟を漁民に与えました。
築島工事の完成後、佃村の漁民33名が移住し、故郷にちなんで佃島と名付けたのです。
さらに、江戸の海や川での漁業を許可すると同時に、将軍へ白魚をはじめとする魚介類を献上が始まりました。
佃煮は佃島の漁師が献上品である白魚などの余りを塩で煮付けたものが直接の始まりだといわれています。
その後、現三重県西部の伊賀の忍者部隊の助けもあってなんとか岡崎城にたどり着いた家康は
佃村の人々の恩を忘れることはなく、徳川幕府創設期から佃村の漁民を江戸に連れてきていました。
さらに恩賞として幕府はは隅田川にある石川島の近くの約20000m2の干潟を漁民に与えました。
築島工事の完成後、佃村の漁民33名が移住し、故郷にちなんで佃島と名付けたのです。
さらに、江戸の海や川での漁業を許可すると同時に、将軍へ白魚をはじめとする魚介類を献上が始まりました。
佃煮は佃島の漁師が献上品である白魚などの余りを塩で煮付けたものが直接の始まりだといわれています。
佃島はその後漁師町として発展し、進んだ漁業技術を江戸にもたらしたそうです。
現在、佃島には1800年代前半創業の佃煮の老舗がいくつか残っています。
近くまで行ったらぜひ訪れてみて下さい!
佃煮屋 / KAZ2.0 |
写真のは天保8年(1837年)創業の
『佃島 天安本店』 です。
なんと季節に合わせて味付けを微妙に変えているそうですよ。
食べてたいですね!
当社からは徒歩で20分くらいなので涼しくなったら
また帰りに寄りたいです・・・
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